Pongという名の世界

Gameの事を書いたり。

【MG、MGS】メタルギアというゲーム(5)【思う事】

 SENME(センメ)→「文想遺伝子」:意味/センス(SENSE)とミーム(MEME)の意味を併せ持つ造語。個々の経験から生まれた思想、受け継がれた文化的遺伝子からなる「文想遺伝子」。発音は、MGS4の各ACT冒頭に流れる歌声から。

 

 MGSをプレイ中、ふと思いついたので書き残して置く。(・ω・)

 どこかで使いたいなぁ。

 

 さて置き。

 MGSをプレイしていると、言葉というものが「遺伝子」の様な存在に見えて来る事がある。

 組み合わせ、組み合わされ、淘汰され、生き残る。

 時に言葉は、まるで「生き物」のような振る舞いを見せつける。

 

 言葉という存在は、多くの人にとっては

「言葉自体は静的なもので、自ら動くようなものでは無い。」

と思われているのかもしれない。

 確かに、言葉の持つ「意味」はそうそう変わる物ではない。

 だが今まさに思いついた「SENME」の意味を以って言うならば、

 

「言葉の持つ意味は変わらず(動かず)とも、言葉の持つ意味は人を動かす」

 

と言う事なのだと思う。

 言葉は、ただそこに在る。だが言葉はその意味で人を動かし、成長し、進化して行く。

 

「言葉を信じるんじゃない。言葉の持つ意味を信じるんだ」

 

 言葉について考えていると、やはりスネークのこの言葉を思い出す。

 「言葉」は書かれている文字や、発音する声を表す「形」を示している。

 だがその言葉を記すとき、発するとき、人は自分の中にある「思い」を伝えようとしている。

 言葉の意味、それは伝えようとする意思、伝えようとする行動。

 そして自分自身の思いを伝えるために、人はその手段を身につけようとする。

 

「心技体」

 

 言葉の意味を考えていると最後にはいつも、心の中にTHE BOSSの声が思い起こされる。

 「言葉の意味」とは、強く願う心、その想いから起こる行動そのもの。

 「言葉」になる以前に、心の中にある思いを伝えていく行動、そしてそれを形にしていく事。

 

 そして最初に書いた「SENME」とは、それをする事で、新たな「言葉」を紡いでいく事だと考える。

 そう、「言葉の意味」を信じて。

 

 

 どこかで使いたいなぁ・・・(・ω・)

【MG、MGS】メタルギアというゲーム(4)【思う事】

 →彼方です。(・ω・)

 そろそろ、METAL GEAR SOLID Vについても何かしら触れてみたいところです。

 

 そんなわけで、つらつらと。

 

 MGSVのGZで冒頭に出てきた、牢に囚われた少年。

 あれがもし、チコならば。

 

 スネークが救出に行ってるからチコなんだろうけど、パスの生死はまだわからないから、何とも言えないが…。

 もし、フランク・イェーガーがチコの未来だとしたら、チコはパスを救えなかった自分を許せていなかったのかもしれない。

 だから、痩せこけた良心という物に、耐え切れなかったのかもしれない。

 救えなかった、かつての想い人に、手を差し伸べる事が出来なかった、自らの汚れた手で、良心の呵責を偽りの藍で染めたグレイ・フォックス

 

 「あいつを拾ったのは、うしろめたさに耐え切れなかったから。あいつの世話をしたのは、やせこけた良心を満足させるため。……それでもナオミは俺を兄と慕ってくれた。……はたから見れば俺達は仲のいい兄妹に見えたかもしれん。だがあいつに瞳を覗かれる度、俺はいつも怯えていた。」

 

 その眼は、パスと重なっていなのかもしれない。

 もしフランクが、チコであったなら。

 

【Pong!】ざざっとゲームの話。 主に、グラフィックとか。

 こんばんは。→彼方です。

 

 (・ω・)ノシ

 

 今日は、ゲームのグラフィック、画像や映像について、あれやこれやと書いておこうと思います。 何だろうな…切り口としては、「映像ってゲームには重要なの?」って話です。

 そりゃ重要だろうがよ!って声が聞こえてきます。ええ、聞こえました、ええ。

 そうであっても、今のゲームには言いたいことが結構あるので、これからもそういう物を書けい行ければと思っております。

  

 てなわけで本題に入りましょう。

 

 その昔、アドベンチャーゲームと言えば、BASICのライン文で線だけ描画して、矩形部分を塗りつぶしつつ絵を描くというものでした。

 なので場面が変わると、描画までに30秒から1分近くかかるものもありました。今ではそれがあっという間に出てきます。

 フェードイン、フェードアウトも自由自在。殆どがハードのデフォルト、またはメーカーオリジナルのエンジンによって制御されており、描画と場面が一体だった頃のゲームは、もうなくなってしまった、と言ってもいいでしょう。まったく、技術の進歩というものは凄い。

 ところが、画面描画の技術が進化して、思い描く効果が誰でも出来る技術になった時、ゲームとしての味というか、映像自体が、どうも外連味の無い物になってしまったように感じるのです。

 昔はその「描画の技術」さえも競い合い、それ自体を売りにした画期的なグラフィックが世に送り出され、その素晴らしさに驚かれた物でしたが、今は普通に出来て当たり前、なのでどうも「ゲームの一部」では無くなってしまったと感じるのです。

 確かに、映像自体もゲームの一部なのですが、それがすなわち「ゲームの特徴」とは、成りえなくなってきていると思うのです。

 FFの様な美麗なグラフィックが主流になりつつある今のゲームに描画、特に映像表現で勝負を挑む様な会社は無いのでしょうか。

 例えそれを実現できたとしても、只の奇抜な物としてしか扱われないのでしょうか。

 あ、そうそう。

 コジプロのFOXエンジンには期待しています。あれは、ゲームの為のグラフィックエンジン。今までの物と、視点がちょっと違う。

 用意された物で余りを出して作品を創るより、無い物や必要なものは作りだして作品を創る事は、同じ様でいて違う事だと思うのです。

 映像とは、ゲームにとって何か。

 ゲームにとって、映像とは何なのか。

 

 ゲームに映像は必要なのか。そもそも、映像の無いゲームは作る事が出来ないのだろうか。

 ここを突き詰めてこそ、初めてゲームに対する映像の主観を持つ事が出来ると思うのです。

 音の無いゲーム。映像の無いゲーム。これらを「必要」と言う場合、何を根拠に「必要」と言うかで、そのゲームを作っている会社の想いも計れそうな気がします。

 単純に「必要」と言う事を理由にしているなら、ゲームでなくてもいい。ドラマでも、映画でも、小説でも。

 何を作りたいか。そこを持ってしてゲームを作っている会社はだいぶ少なくなってきているように思えます。

 ゲームそのものの内容だけを扱うゲーム会社が多くなってきた昨今、「ゲームが売れない」「低迷している」と嘆く前に、自分達は本当にゲームを作っているのか、そこから考えてみて貰いたいと、そう思わずは居られません。

 本当に心からそう思うのです。

 

【MG、MGS】メタルギアというゲーム(3)【思う事】

 こんばんは。→彼方です。(・ω・)

 

 書いてる時間が夜中なのでこんばんは、ですが、明日の朝起きて読み返すと違和感あるんだろうな・・・。

 それはさておき。

 

 今日はふと思った事があるので、さらっと書いてしまいます。

 前置きの方がなげぇよ。(・ω・;)

 

 MGSは、フィクションです。

 確かにその通り。実際、私たちの住むこの世界は、スネークは居ない。

 その言葉を口に出してしまうと、やるせない気持ちになる。

 残念ながら、やはりフィクションと言わざるを得ないのかもしれない。

 

 でも今日思った事は、ほんの少しだけだけど、自分の中の「世界の見方」を変える物だった。

 スネークたちの居た世界から見て、僕らの居るこの世界こそフィクションなんじゃないだろうか。

 彼らの戦う必要の無い、平和で、彼らにとって「一つ向こう側の世界」。

 僕らは、フィクションなんじゃないだろうか。

 

 そう思う事で、より、メタルギアが身近に感じられるようになった。

 今日は、そんな春先の一日でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あ、そうそう。(・ω・)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だから、スネークは、やっぱり居るんだよ。

 もう、居ないなんて言わない。

【MG、MGS】メタルギアというゲーム(2)【思う事】

 →彼方です。(・ω・)

 

 ブログって書き慣れていないので、とにかく思いついた事とか書いていけばいいよって言われて更に混乱中。

 Twitterで文字制限的に複数ツイートになってしまう物をこちらに書くと言うようなスタンスでも良いのかが難しい所。

 それでも、何とか続けてみようかと。

 

 今日はMGSの全体について、思う事を書いてみようかと思います。

 とはいえ、MGSについては様々な意見、考察、解説が成され、私が今ここに書くべき事は、ほんの少しの事だけしか残されていないようにも思っています。

 それでも、その内容と自分の考えが近しい物であり、共感を得る物が共有できたとしたのであれば、その書き連ねてきた《先人》の思いと、同じ境地に立てたのだと言う事なんでしょうね。

 

 今から25年前、メタルギアが発売されました。これ程長く続いた続き物のゲームは、そう無い訳です。完全に無かったともいえないので、少なからずとも、希少な存在である事に違いは無いでしょう。

 メタルギアは、MGの時代から、僕らの今の時代設定に近しい存在でした。手を伸ばせば、まだその時代の人たちが生きている。知ろうと思えば、直接触れることの出来る時代の物語です。

 メタルギアの本質は、実は、そこに在るのではないかと最近思う様になりました。

 25年。この数字は、果たして25年続いた事が凄いのか、はたまた、決められていた運命だとでもいうのか、と言う事です。今から25年前。このブログを見ている方の中には、まだ生まれていなかった方も居ると思います。

 四半世紀という時代の流れの中で、MGはMGSとなり、MGS4で終わりを迎え、今まさにMGとMGSを繋ぐ「THE PHANTOM PAIN」が発表される中、小島監督の紡ぐMGSという叙事詩は、僕らの生活の裏ではこれだけの事が起きていたんだという事を示し続けて行きました。

 MGSが《生き延びて》25年続いたと監督は仰っていました。そのうえで私はこう思うのです。

 監督が毎回のように《これで最後》、《これが今のコジプロの集大成》として創りあげてきたメタルギアという蛇たちの影の歴史は、私達の現実として語る上で、本当に25年の年月を要する物だったのではないかと。

 それは即ち、25年という年月はMGSを語る上で、運命として《必要な年月》だったのではないかと、そう思えるのです。

 

 四半世紀を過ぎ、なお生き続けるMGS。

 GROUND ZEROES、THE PHANTOM PAINが控える中、僕らはまだまだ目撃者を止めるわけには行かないようです。

 

【MGS4】メタルギアというゲーム(1)【考察】

 皆さんこんばんは。→彼方です(・ω・)ノ

 みなさん、と前置きをつけられるくらい、読んでくれる方達が居るかは謎ですが、ゲームなどのプレイ中、プレイ後に、思ったことを、ここに書いていこうと思い、ブログっぽい物を立ち上げました。

 不定期なうえ、大半は個人の思ったことを書いて行こうと思っていますので、その辺りはご容赦くださいませ。

 さて、今回は【MGS4メタルギアソリッド4 ガンズ オブ ザ パトリオットについての考察です。

 あくまで個人の感想であり想像なので、間違っているかもしれません。

 でも、もしかしたら、合っているのかもしれません。 

 願わくば、合っている事を。と思っております。

 あと、今回はテーマがエンディング中の話についての内容なので、多大なネタバレが入っています。

 まだクリアされていない方は、回れ右、そのまま直進(クレイモア)でお願い致します。

 それでは、お読みになられる方は、しばらく下の方までお進みください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(・ω・)もうちょっと下です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【MGSにおいての煙草とは、葉巻とは】

 MGS4のエンディングにて、BIGBOSSと再会したソリッドは、再度BIGBOSSを見送る事となる。

 その時、BIGBOSSは葉巻に火をつけようとするが、力なく落としてしまう。

 それを見たソリッドが葉巻に火を点け、BIGBOSSに葉巻を渡して吸わせた。

 BIGBOSSはそれに満足しながら他界する。

 その後、ソリッドは煙草を止め、デイビッドとしての人生を歩むことを決めた。

 

 かなり内容を要約していますが、今回はこのシーンについて考察して行きたいと思います。私は、このMGS4最後のシーンでの煙草、葉巻への両者のアプローチが実に物悲しく、メタルギアという作品の最後を締めるにあたり、重要な意味を持っていると思っています。

 その訳を、順を追って説明して行きたいと思います。

 このシーンの手前で、BIGBOSSはソリッドに「蛇は一人で、いや、蛇はもういらない」と言っています。更にその前にも、「人(デイビッド)として生きろ」と。

 そして、BIGBOSSは葉巻を咥えたまま他界し、その直後、葉巻は地面へと落ちて行きました。一緒に生死を共にしてきた葉巻「THEBOSS」と共に、その生涯を閉じる事となったのです。

 そしてソリッドもまた、自分の意思で煙草から離れる事になりました。

 ソリッドは、健康に悪いからだ。と、そう言っていました。

 

 MGSにおいて、煙草、葉巻は欠かせないアイテムの一つでした。

 ただ持っているだけでは無く、スネークたちの命を幾度となく救ってきました。

 その煙草、葉巻をどのように扱ったかが、二人の「蛇」への思い、「戦士」としての思いを表しているように思えるのです。

 

 葉巻を離すことなく、最後まで「戦士」として生きたBIGBOSSは、ソリッドに「蛇」のバトンを渡すことなく、葉巻《THEBOSS》と共にあの世へ旅立ちました。

 きっと、BIGBOSSは葉巻を咥えたまま他界する事で、BIGBOSSは「蛇」そのものを持ってあの世へと旅立ったのだと思います。

 またソリッドも、BIGBOSSの言葉があったからかは謎ですが、今まで決して手放す事の無かった煙草を、自らの意思で止めました。

 「戦士」としての証ともいえる煙草を、自らの意思で手放した。

 これは、もう戦わなくても良い、と言ったBIGBOSSの願いをかなえる事にも通じるのでは、と思います。

 煙草を手放し、「戦士」としてではなく余命を探したソリッドは、「蛇」を捨て、人としての余命を選んだのだと思うのです。

 

 最後まで「蛇」のまま生涯を閉じたBIGBOSS。

 そして「人(デイビッド)」として、余命を生きる事を決意したソリッド。

 煙草と葉巻は、そんな両者の生き方そのものを表しているのではと、そう思えてならないのです。